帆手まつり
この祭りは塩釜神社のお神輿が出る祭りの中でも一番歴史が古く、別名「火伏せの祭り」といわれている。 |
蒲生が伊達藩の指定港となった寛文十年(1670年)頃から塩釜に入る船はだんだんと少なくなり、そのうえ、 |
街では火災が毎年のように発生し塩釜の街は寂れた。そんなおり誰言うとなく鹽竈神社のお力にすがり景気 |
回復と厄払いの祭りをやろうということになった。「竜のひげ」といわれる草でぼんぼりを作り、竹の脇差、紙の |
法被を用意し、「お祭りだ、お祭りだ」と町中を歩き回ったのが帆手まつりの起源であり、それは天和二年 |
(1682年)のことだといわれている。その後、藩から祭りを毎年行うのは贅沢だといわれ一時とりやめになって |
いたところその年に火災が起こった。これは祭りを中止したために神様の怒りに触れたのだということになり |
再び祭りが行われるようになった。このようなお祭りの経緯により帆手祭りが別名「火伏せの祭り」といわれる |
由縁となりました。また、貞享二年(1685年)、四代藩主伊達綱村公は塩釜神社への崇敬が篤く、塩釜の惨状 |
を見かね租税の免除、市場の開設、港の整備、祭りの実施など、九ヵ条の特例を出された。これにより街は |
活気にあふれるようになり、人々は大いに喜び、毎年正月28日に感謝の祭りをするようになった。享保十六年 |
(1731年)、それまでの白木でできた簡素な神輿から現在の黒塗りの神輿に作り直して奉納がなされた。 |
この神輿の重さは二百五十貫(約1トン)もあり16人の氏子により担がれ市内を練り歩く。明治5年の改暦後、 |
神輿洗いの神事とも呼んでいたこの祭典を明治21年からは3月10日に改め、港に縁ある帆手祭と呼ぶように |
なりました。この祭りは町民から盛り上がった氏子祭りで300年以上の歴史がありたくさんの人々に愛されて |
いるまさに塩釜を代表する氏子祭りです。 |
写真提供・・・宮城県立塩釜高等学校 写真部 (顧問 小川 進 先生)